1.4.4 近接作用というドグマ

 近接作用の場合、作用を伝える媒体(エーテル)が必要になるため、運動の相対性が満
たされなくなる。そのため、ローレンツ圧縮のような考え方が必要になる。
 これに対し、遠隔作用は作用を伝える媒体(エーテル)が不要なため、運動の相対性は
自然に満たされる。ローレンツ圧縮のような考え方も不要である。
 運動の相対性を考えても、遠隔作用の方が合理的なことがわかるだろう。
 ところが、相対論信者たちは、そうは考えない。「遠隔作用は魔術のようで、非科学的
だ」というのである。
 確かに、「手も触れずに物体が動き出す」などというのは、魔法か、超能力か、さもな
ければ手品でもなければ有り得ないことのように思える。物体が作用を受けるためには、
手が物体に接しているか、さもなければ物体と手の間に作用を伝える物がなければならな
いように思える。つまり、遠隔作用は間違いで、近接作用こそが正しいように思える。
 だが、こうした認識は、あくまで人間の目が見ることのできるスケールで、物事を見た
場合の話である。素粒子のスケール、すなわち、肉眼では見えない微視的なスケールで見
ると、事情は大きく変わってくる。
 たとえば、手で物体を動かすことを考えよう。この時、果たして手と物体は本当に接し
ているだろうか?
 手や物体を構成している素粒子どうしは、決して接してはいない。たとえば、物質を構
成する電子と原子核は、まったく接していない。遠く離れている。つまり、物質はスカス
カなのである。物質を構成している素粒子どうしは接していないのだから、当然、手と物
体も接してはいないことになる。
 にもかかわらず、物体は手から作用を受ける。ということは、遠隔作用が正しいという
ことになる。
 このように、肉眼で見ると近接作用的に見える現象も、実は遠隔作用による現象なので
ある。
 物事をいろいろなスケールで見ると、見え方が全然違ってくる。というより、真実を見
抜くためには、様々なスケールで物を見る必要があるということなのだ。
 悲しいかな、相対論信者たちは、特定のスケールでしか物事を見ようとしないので、真
実を見抜くことができないでいるのである。彼らが近接作用を絶対視したがるのも、その
ためだ。
 この『特定のスケールでしか物事を見ようとしない』という態度は、言い換えれば、人
間の目・感覚を過信するということである。これはまさに、オカルト的態度だ。こうして
みても、相対論が光崇拝教のオカルト科学であることがわかるだろう。
 人間の感覚が絶対だというのなら、『天動説』や『地球円盤説』だって認められていい
だろう。感覚だけで、「天ではなく地球の方が動いている」とか「地球は丸い」と認識で
きる人間が、この世にいったいどれだけいるというのか?
 いずれにせよ、近接作用を絶対視する信仰は、まさに『見えない目』が生み出した迷妄
なのである。

 そもそも、『近接』とか『遠隔』という区別自体、全く曖昧で、人間的なものである。
 たとえば、東京・大阪間の距離は、遠いだろうか? それとも、近いだろうか? 徒歩
で行くとなると、それは遠い距離だ。しかし、飛行機で行くとなると、それほど遠い距離
とはいえない。特に、国際線を頻繁に利用しているような人から見れば、目と鼻の先であ
ろう。まして宇宙というスケールで世界を見るならば、無に等しい距離だ。
 このように、『近接』とか『遠隔』という区別は、決して絶対的なものではなく、どう
いうスケールで見るかによって決まってくるものなのである。つまり、この区別は、相対
的なものにすぎないということだ。したがって、近接作用を絶対視するなど、まったく馬
鹿げたことだろう。
 『天の川』や『渦巻き銀河』などの写真を見ると、星々が、くっついて見える。だが、
実際には、星と星との間の距離は、東京・大阪間の距離よりも桁違いに大きいのである。
 マックスウェル方程式を絶対視する連中が、連続体扱いする物質についても同じことが
いえる。物質は、稠密で無限小に分割可能な連続体などではないのだ。もっとも、古くさ
いトムソンの『プリン型の原子モデル』が科学の真理だというなら、まだ見込みはある。
だが、今時、そんなものを支持する人はいないだろう。ラザフォード・長岡の惑星型原子
モデルは、近接作用が誤りであることを証明しているのである。
 相対論も、その基になっているマックスウェル電磁気学も、近接作用の理論である。そ
れらを科学の真理と認めることは、ラザフォード・長岡の惑星型原子モデルを否定するこ
とになるのである。このように、相対論は、全く前近代的な物質観に基づいて作られてい
るだ!
 原子モデルというと、物理学というよりは化学という印象が強い。それ故、相対論とは、
互いに専門外ということになってしまいがちだ。そのため、こうした重大な問題が指摘さ
れずにすんでいるのである。

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